「銀シャリ」の由来とお米の歴史〜玄米から白米へ
寿司ネタの下に隠されているツヤのある輝かしいシャリ。
シャリはお寿司の酢飯を指すものとして定着していますが、これに対して銀シャリは「白いごはん」そのものを指す言葉です。
今回はなぜ白いごはんが銀シャリと呼ばれるのか、その歴史や由来について紹介していきます。
銀シャリの意味

銀シャリを一言で表すと、「味付けされていない白いごはん」です。
この「シャリ」という言葉は、梵語の「舎利」から来ています。
舎利とは人の遺骨を火葬した後に残る小さな骨のこと。
この姿が似ていることから、お米を「シャリ」と呼ぶようになったそうです。
さらに、お釈迦様の遺骨が祀られている墓は仏舎利と呼ばれます。
仏舎利は五穀になり人間を助けてくれるもの。
輪廻転生の観点ではお米は仏様の化身であるとも考えられていました。
ピカピカに輝いたお米は、仏様と同じくらい大変貴重なものであるという意味も込められていたそうです。
玄米から白米へ

今の日本では白米が主流ですが、江戸時代や明治大正くらいまでは白米は高級な食べ物として扱われていました。
文明が発達していない時代には、玄米を精米するという作業がとても大変だったそうです。
白米が食べられるようになったのは、江戸時代。
農村部では相変わらず玄米が主流でしたが、江戸などの都市部では白米が普及していきました。
出稼ぎに都市部へ来た人たちが白米を食べて体に不調を感じ、農村部に戻ると回復するという不思議な現象をあらわした言葉が「江戸わずらい」。
これは、玄米に含まれているビタミンB1が大きく関係しているようです。
江戸わずらいは「脚気」という病気によるもので、その頃は原因が解明されることもなく、大正時代には国民病として知られるほど大流行してしまいました。
昔は今のように肉や魚、野菜などのおかずが揃った食事はできておらず、主食が大きな割合を占めていたようです。
栄養価の高い玄米を美味しい白米に変えたことで、病気が増えてしまったことは皮肉な結果といえるでしょう。
その後、白米の普及によって、農村部だけではなく日本全体に脚気が広まっていきます。

脚気患者の減少

脚気は今となっては珍しい病気になりました。
これは昭和に入ってから研究が進み、はっきりとした原因が解明されてきたからだといえるでしょう。
しかし、脚気による死亡者が1000人を割ったのは昭和30年と比較的最近のことともいえます。
昭和30年から昭和35年の5年間で、患者数は大きく低下しました。
今となっては白米は当たり前のものですが、長い歴史を見ると普通の家庭に定着したのはつい最近のことともいえるのではないでしょうか。
また、副食に乏しく白米ばかりに頼っている食事では、脚気の原因となるビタミンB1が不足しがちになります。
今でもまれに、脚気になる人がいるそうです。
白米を主食とした食事は、充実したおかずがあるからこそ成り立つものです。
栄養価の高い玄米を食べない現代人は、その分他の料理から栄養を摂らなければなりません。
美味しい「銀シャリ」を食べたいのであれば、栄養たっぷりのおかずも食べましょう。というお話でした。
writer 管理栄養士 片村優美
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